WISC(WAIS)の凸凹があれば発達障害?!
心理検査
2023.10.29
”いまだにWISCの凸凹を根拠に自閉スペクトラム症かどうか診断できると考えている心理士がいるのは残念です。”
黒田美保先生のTwitter(X)より
WISCをK-ABCに置き換えても同じことです。
これまでも折々コラムでお伝えしてきましたが
WISC(WAIS)の評価点を「根拠」にASDとしたり、凸凹があれば発達障害 とする傾向に対し
黒田美保先生の「亡霊」「迷信」
下山晴彦先生の「都市伝説」 に加えて
岡田 智先生の「民間伝承」 という表現も見つけました。
このネーミングには、この誤解を放置してはいけないという危機感も感じます
そこに共通するのは
存在しないものが、まことしやかに人の口に上り続けている
科学的に否定して続けていても、消えることなくむしろ広がっている
伝聞に次ぐ伝聞でしかないということ。
プラス ローカル性というものも含まれているのかもしれません
地方だからというよりも、その集団、界隈、という意味で。
そして否定しても修正しても どうやら「信じたい人たち」がいて
いつまでもこのまことしやかな話が消えないことも。
「 WISCの臨床使用に関しては、謙虚で誠実に、個別性を重視した活用をしないと受検者やその家族を脅かしたり、まったく的外れな助言をしてしまったりするリスクを孕んでいる。」
「 高度な専門的内容を含む解釈ができて、特定の認知特性や障害特性をみごとに評価できたとしても、検査結果をフィードバックするクライエントや家族、支援者がそれの結果を活かすことができなければ何の意味もない。」
岡田 智 「Wechsler検査でASD特性は把握できるのか ーPARSとWISCの統計分析を通してー」
第58回日本児童青年精神医学会 シンポジウム にて
児童青年精神医学とその近接領域 60(1)p2
「亡霊の存在を信じたい」こころに何があるのか。それは以下で説明できるのではないでしょうか。
「 障害特性理論と検査結果の一部がつながり、見事な解釈ができた際には検査者にとっては気持ちが良いものである。現実生活でのクライエントの苦しさやしんどさは横に置き、酔いしれてしまうものである。筆者も臨床において、そのひそかな快楽を味わってしまうところがある。しかし、何のための検査なのか、誰のための検査なのか、マニアックな解釈はどの程度可能なのか、問い直してみたくなった(以下略)」
上記 p3
誤解のないように、これは謙虚、誠実にご自身を通して多くの検査者が見ないようにしている隠れたひそやかな歪んだ自己満足を率直に語られているものです。
時に占い師ですかといいたくなるような、診断名への言及の蔓延への強い警鐘といえます。
それでは検査者にもとめられることは?
「WISCーⅣの認知プロフィルからASD特性に言及したくなってしまった場合は、その思いを上手に抑制するか、子どもの日常生活実態の情報やほかの検査結果も加味した、慎重で生態学的に妥当な解釈を行うことが望まれる。」
「(前略)発達障害のアセスメントは「熟達したみごとな解釈をしたい」「それを披露したい」という欲求をどのように抑制するか、クライエントの利益を優先し、どのように支援をプランするか、どれだけ柔軟に支援を実行するかなど我々の実行機能が試される業務でもある。」
上記 p5~6
ほんとにね、
「この項目とこれが低いのは〇〇だって判断できるんですよ(自分にはわかるんですよ)」
「へえ~~~(よくわからないけどそうなんだ すごいですねえ)」
みたいなやりとりで得られるものはなんなんでしょうかね。
検査はあくまで情報のひとつであって
以下のことを伺っていくことが同等かそれ以上に大切なこと
たとえば すぐに支援が必要なら、本人も家族も検査は拒んでいるなら
以下のことを丁寧に知ろうとしていくことで、支援のスタートはいくらでもできるでしょう。
むしろ WISCやK-ABCの前にできること、やるべきことはあるのに検査結果が出るまで「何も行われない」ことが少なくないようにも思うのですが‥。
ありきたりなことですが挙げておきます。
生育歴
現在の状態(多様な場面での多様な状況での)
他の身体的な病歴
本人の気持ち・考え(これまでについて いまについて これからについて)
家族の気持ち・考え(これまでについて いまについて これからについて)
これまでに工夫してみたこと 参考にしてきたこと
そしてこれらを「問うべきことを問えるように聞く」ことができているか、が問われます。
また 検査を受けているときの観察された行動(Test Session Behavior)を質的情報として十分に解釈に用いることができているか、それ以前に あるテスターの実施のありかた(状況の判断 関与の仕方など)は検査結果の妥当性を保証しているのか?など 様々な要因を考えていくと 本当にテストを絶対視するべきではないと改めてかんじます。
ここまで書いてきて、なんだかものすごくありきたりなことを言っていることが恥ずかしいと思わないでもありませんが
この「ありきたりなこと」をあえて語らないといけないらしい と思うのでした。