事例検討会は「悪いところ探し」の会なのか?

そしてそこから出てきた「対応策」は実行して大丈夫なのか??

いろんな機会で、いろんな職種の方々と、「事例検討会」が催されます。
ずーっともやもやしていたことを少しまとめてみました。

1 何が問題か?の問いの矛先が 家族 に向いたとき
答えは「愛情不足」「過保護」「体験不足」
対応策: 保護者に理解を求める 「もっと〇〇してください」 と伝える など・・・

2 何が問題か?の問いの矛先が こども本人 に向いたとき
答えは「プライドが高い」「打たれ弱い」「めんごがられたい」
対応策:⇒ 1へいく。失敗を重ねさせて慣れさせる。失敗も経験だと教える。など・・・

3 何が問題か?の問いの矛先が ラベル分類に向かうとき
答えは  「ADHD」「ASD」「発達障害」 
対応策:検査を勧める  医療を勧める 視覚的な工夫をする など・・・

以前は1と2が大半でしたので、「この三つの言葉を使わずに考えてください」と申し上げていましたが、最近は「3でないとしたら何か、を考えてみよう」と言わねばならないことが増えました。

そもそも、10年前であれば、わたしが今でいう「発達障害」の視点からコメントすると、「わがままなだけです」とか「親の問題です」「病気とか言ったら努力しなくなる」などと反論されたものです。

パーキンソン病を発症された方が「車に乗ってばかりいるから足が弱いんじゃないか」と言われたり
若年性のアルツハイマーの方が「奥さんが大事にしすぎるから服も着られなくなった」と言われたり
なにかしら通常ではない事態が生じると 心がけの問題、行動と考え方の「落ち度」と解釈しがちなところが我々にはあるのかもしれません。そしてシンプルな答えを出そうとするのでしょう。

そして事例を聞いていて思うこと
〇情報が少なすぎる
〇誰の視点のどこからの情報か、情報の主体が曖昧過ぎる
〇誰かの推測(かんぐり)なのか、客観的な確実な事実なのかわからないことが多い
〇ステロタイプな「決めつけ」が多すぎる(ここから事実と推測が混然としてくる)
〇事実誤認が含まれていることがある

身体の診断と治療になぞらえればわかりやすいですが、そのような情報によって導かれる「結論」と「対応策」が過ちのもとですよね。

ここから考えることは、1複数の仮説を持ち、2絞り込むために
「もっと必要な情報はなにか」を知ること で終わったとしても十分に意義があるのではないかと思うのです。「わからないことがわかる」って大事です。

対応策については「思い付き」の提案が出てくることが気になります。
また、時には指導的な立場の方から、どう考えてもただの思い付きのような、時に害となるような提案があることも気になります。
たとえば 緘黙。
これまで書いてきましたように「挨拶」は最も困難な課題です。
「挨拶くらいはさせましょう」という助言はまったく根拠がないものであるばかりか、暴力的ですらあります。
「困らせたらしゃべるだろう」
「誰かがやってくれると思って楽を覚えたのだから手助けをやめればいい」
など言う発想はどうもいら立ちや意地悪な気持ちへの自覚が欠けています。


<「理解ある風」を手放し、回避を減らし、勇気づけていく取り組み>が求められますが、先述の通り「社会不安に十分な知識と理解のある臨床家」が条件とされています。

もちろんごく少ない情報ですぐにわかること(時)もあります。
そしてそういうときほど、見立てが真逆だったりします。「だらしないいい加減な子」が「実は完全癖が強く、強迫行動に苦しんでいる」ことが背景にあったり。
また、明らかに心理的な背景があるように見えるとき、実は見逃してはならない身体的疾患があった、ということも稀ではありません。

自己免疫性脳炎のように、かつては精神疾患と扱われたものも、器質的な背景・根拠があるものとして知られるようになってきました。器質性精神障害、症状精神病など、かつて学んだことから更新しなければなりませんね。

「愛情不足」とか「プライドが高い」とか言ってしまうことで、重要な要素・兆候が見えなくならないようにしたいものです。

とにかくわかりやすい「心理的な原因」に帰結しようとする ことは危険

事例発表者が
「その立場で、この状況では、そこまでしかやりようがない、もっとこうできたらとはわかっている」にもかかわらず、ああしろこうできないのかと言われてしまうことを体験したことは無いでしょうか。「この立場、状況」はご本人にしかわからないことも多いので、そういう乖離は起こりえますよね。「そんなことわかってるよ!自分だってそうしたいけど・・。状況わからないのに軽々しく批判とか提案とかしないでほしい」と思いますよね。

これ、1や2で 保護者や子どもに求めていることなんじゃないでしょうかね。
「もっとスキンシップを!愛情を!」と言われて、同じように感じることは無いのでしょうか。

「わかってるけど簡単じゃない」ことだから、いっしょにむずかしいねえ そうできたらいいんだけねえ とぐずぐずとすることも悪くないように思います。人間らしい。

でも、そこに甘んじてもいけない。

村瀬嘉代子先生ご退官にあたって編まれた「心理臨床という営み 生きるということと病むということ」金剛出版における 伊藤直文先生「事例検討会から」もお読みください。


研修セミナーで事例発表に選んでいただき、周囲から「厳しいよ」と忠告を受け、主催者から電話で「厳しいですよ。大丈夫ですか」とわざわざ心配され(田舎者でよくわかっていないと心配していただいたものと思われる…その通りですが)、終了後は小倉清先生から「大丈夫だった?」とお声をかけていただくというおまけ付きで。

その時の体験の答えが18年前のこの伊藤先生の教えてくださる、事例研の村瀬先生のありかたに述べられていました。
「共感とは想像力を働かせてその人をひとりぼっちにしないこと」という言葉もここで紹介してくださっています。