「ダメ。ゼッタイ。」は「ゼッタイ。ダメ。」(杉本なおみ先生)危険性の強調が危険性を高めるパラドックス
摂食障害
2024.06.23
薬物乱用予防教育の誤りから、摂食障害の予防介入を考える
「ダメ。ゼッタイ。」で検索して表示されるのは国や自治体などなどのキャンペーンホームページが8割以上ですが、以下のようなものも見つけることができます。
薬物「ダメ。ゼッタイ。」はウソ 治療の第一人者が明かす依存症の本質(毎日新聞医療プレミア)
「ダメ。ゼッタイ。」は逆効果。薬物で苦しむ人を本当に支援するには?(週刊エコノミストOnline)
いずれも松本俊彦先生のインタビュー有料記事ですが、一部読めます。
私たちが使うのは「ことば」です。「ことば」によって、他者の行動に影響を与えようとしているわけですよね。
そのことばが自分の意図とは異なる作用をしているのだとしたら
それどころかむしろ逆の効果をもたらしているのだとしたら
これは放置されていいものではありませんよね。
それがどのように効果をもたらしているのか、いないのか、はたまた悪影響を及ぼしていないのか。
こういうことを思い込みや印象に拠らずに検証することが科学的態度。
心理学を「行動科学」と言うのは、実験や統計調査などを用いることで、それを行うから。
(すみません、同業者には恥ずかしいくらい何をいまさらなことを偉そうにいっておりますが、お許しください)
そしてさらにそのうえで、そこにおさまりきらないひとりひとりの「物語」とともにある、ということが治療的な態度。
杉本なおみ教授 慶応義塾大学看護医療学部 による
「わかる!使える!コミュニケーション学のエビデンス」
「ダメ。ゼッタイ。」が「ゼッタイ。ダメ。」な理由を科学的に探る(医学界新聞)から引用させていただきます
” 青少年の薬物乱用が社会問題となる中,違法薬物に関する啓発運動が盛んに行われています。しかし「脅し」型の説得が多く,再発防止には役立たないという指摘があります。コミュニケーション学においても,マスメディアが健康行動の変容に与える影響は幅広く研究されており,薬物乱用リスクの高い青少年に対し「ダメ。ゼッタイ。」と声高に叫んでも逆効果にしかならないことが知られています。”
この記事が医療従事者向けであるためか
「知られています」 そうあっさりと自明のこととして書かれていますが
「明らかになっています」なんだけれども
「一般に」はまだ不十分としても、いわゆる青少年にかかわっている専門職には「常識として共有されているか」はどうなのでしょう?
第一線の方々にとっての「常識」が「世間の常識」になるまでの中間地点に、自分たちのような「専門職」は位置しているといえます。たとえば「発達障害」もそうであったように、「世間の常識」になるまえから「それは違う」と言い始め、言い続けることも大きな役割でしょう。
そして「なぜダメなのか」も根拠をもって理解し、説明でいるようにしておきたい。
” 一般的に,薬物乱用防止の公共広告が正論を説き,見る側を揺動する内容であるほど,薬物乱用リスクの低い青少年はその効果を低く評価します。一方,薬物乱用リスクの高い青少年は,意外にも内容とは関係なく,全ての広告を低く評価します。違法薬物を使用する人物が身近にいる,または使用を勧められた経験がある高リスク群は,自分にとって都合の悪い情報を端から無視するのか,それとも身近すぎる問題だからこそ,その内容にことごとく反発するのでしょうか。”
低リスク群は つまりお説教的な 脅しにかかってくるような 言葉には最も動かされないと感じる。高リスク群は その内容の質的な違いにかかわらず効果が少ないと評価する。それは 正常化バイアス なのか?
ここで紹介されている研究は、fMRIを用いた実験で、参考文献としても紹介されています。
”Neural Predictors of Message Effectiveness during Counterarguing in Antidrug Campaigns ”
Pages 4-30 | Published online: 24 Oct 2014
Communication Monographs. 2015
” まず高リスク群は,予想通り広告全般の効果を低リスク群より一律に低く評価しました。次に,「刺激が強く議論の質も高い」広告は,高・低リスク群双方の関心を引き付けましたが,特に高リスク群においてその傾向が顕著に見られました。さらに,各広告の「刺激の強さ」と「議論の質」に応じて脳内の各領域(楔前部,前頭極,中前頭回,上側頭回)が活性化される現象は,高リスク群だけに見られました。”
” これらの結果を総合すると,高リスク群が一律に低い評価を下したのは,不都合な情報を無視したためではないと推測できます。むしろ広告の内容に強い関心を抱き,今までの自分の行動と比較した結果,自己保全のため全面的な反駁に走った結果と考えられます。”
正常化バイアス よりも 心理的リアクタンスにより近いでしょうか。しかし単なる「反発」ととるべきではないようです。
” 自分の行動を否定する情報に接すれば誰しもあまりいい気はしません。ところがその嫌な気分を払拭する方法は人それぞれです。「不適切」とされた行動へのこだわりがそれほど強くない人は,自分の行動を変えることで対処します。一方,こだわりの強い人は自分が変わるのではなく,自分にとって不都合な情報を否定することで心の平穏を取り戻そうとします。そして,論破した(と感じる)議論の質が高いほど,より一層今までの考え方に固執するようになると著者らは推測しています。”
誘惑に負けるな とか 恐ろしさを理解しなさい というのが「ダメ。ゼッタイ。」なわけですね。
不安や恐怖が起これば、その自分を守ろうとする防衛隊が発動します。
自分の中に生じた不安が切迫して恐ろしく感じられるほど、その燃え上がった炎に消防士が立ち向かっていくでしょう。
消防士は「心配しなくて大丈夫」と消火活動をし「こんなに不安にさせてひどい奴だね」というのです。消防士は悪役ではありませんよ。自分のこころの平穏を守る大切なパーツです。
だから脅してはいけないのです。
以下の説明は、摂食障害にそっくり置き換えることができます。
言い換えれば,「ダメ。ゼッタイ。」というスローガンで違法薬物に立ち向かう強い姿勢を示したはずが裏目に出て,乱用リスクの高い青少年ほど「外国では合法なのに」といった反論に走り,かえって意固地にさせてしまう危険性があります。
「ダイエットは危険」というスローガンで摂食障害に立ち向かう姿勢を示したはずが裏目に出て、痩せ願望の強い青少年ほど「芸能人はもっと痩せている」といった反論に走り、かえって意固地にさせてしまう危険性があります。
といった具合ですね。
以下は 西園マーハ文先生「摂食障害の精神医学 「心の病気」としての理解と治療」日本評論社 2022
幅広く、深く、文化的な文脈も含めた本質的な理解を深める論にふれることは、技法が先走りしがちな昨今、とても重要です。
p212
“ 一時予防教育の例としては、「ダイエットをすると臓器が壊れる」「将来子どもが産めなくなる」などの危険性を強調する授業がある。教育を行う側からすると、伝えるべきメッセージは明確であり、国内で予防教育を実践しようとする場合にまず行われる方法であろう。危険薬物の使用を禁止するための予防教育と同じスタンスだといえる。
しかし、摂食障害の教育では、目の前の生徒の中にダイエット中の者が含まれる可能性が薬物の場合以上に高い。”
「ダイエットするとこんなに大変なことになる」という説明を聞くと、叱責や手遅れだといわれることを怖れ、相談から足が遠のく場合もある。
p212
そして
「患者は下剤を使う」などの情報提供を聞いて模倣する生徒もいる。
まだ過食嘔吐が現在のように誰もが知るものとなるずっと以前、高校に保健講話に来た講師から「大量に食べて吐くようになってしまうこともある」と聞いて、「そうすればいいんだ!」と発見してやり始めた という声も実際に聞いています。
同じ講師からあちこちの学校で同じような講話がなされていますから、たとえば何年かしてこのことを思い出してやりだした、というケースも存在する可能性もあります。
そしてすでにこの症状があって人知れず苦悩していた生徒は治療していたかどうかにかかわらず、周囲が「げーっ」とか「ヤダー」と沸くのを聞いて血の気が引いて恐ろしさに震え、誰にも言わないと固く誓ったかもしれません。その孤独を思うとやりきれません。
講演や講義をする人間が気を付けなければならないところ 自戒も込めて。
こうした感情が揺さぶられたような反応があると「効果があることやってる」と勘違いすることです。
恐ろしい写真やエピソードを伝えて上記のように生徒が沸いたとき あるいは重苦しい沈黙があったとき 自分の言動が集団に与えている力を感じて有能感を得られるからかもしれません。
もちろん退屈で印象になにものこらない講義では意味もないでしょうけれども。それでも害を与えるよりもましとも言えます。
「自分のやったことで悪くしない」ことが最優先です。
一人一人をよく知らぬままにおこなう予防教育は、その影響をできるだけ安全な範囲に収める工夫が欠かせないと思うのですが、この「揺動すれば効果あり」の誤解に基づいた非科学的といえるお話は少なくないように思います。
[ことば」によって仕事をするものは、自分がはたらきかけ、相手の感情、考え、行動に何らかの作用をもたらそうとして仕事をしているといういい方もできると思うのですが
「こういうつもり」では許されないですよね。
相手を思って、ではあっても 「否定」や「安易ななぐさめ」はNGなコミュニケーションですとか
あちこちでそれこそ講話なんかもしてるのがわれわれなわけで。
予防教育について現場(学校や職場)からリクエストを受けた人から「参考になるものないんですか」「マニュアルはないんですか」という質問を受けることがあります。
しかしマニュアルがあってその通りやればよいなら外部講師は必要ないのでは??
それではマニュアルなり準拠すべきものが存在したとして、そのうえで心理の専門家といわれる人間が行う予防教育の意味は?
マニュアルに収まり切れない部分を知っていること、対象の個別性(多様性というよりもこの言葉がしっくりきます)に対する想像力を常にはたらかせること、でしょうか。
ひとすじなわではいかないややこしい人間(ヒト)の知覚や認知や思考、判断、行動についてのいわゆる基礎心理学の知識も必要ではないかと思います。
正常化バイアス 心理的リアクタンス そのほか 行為者傍観者効果 非対称な洞察 などなど
臨床ということだけではなく、基礎心理学といわれる部分を学んでいる意義は、こういうところにもあると考えます。
「もっと強い調子で言ってください」というようなリクエストがあるならば、このような研究結果をきちんと示して理解を得てください。そして実はよく知らないことについて話をしなければならないことがあれば、断る勇気も必要な時があるでしょう。
「ダメ。ゼッタイ。」の無意味さ。いいかげんにハームリダクションに舵を切れ(小林美穂子)
” 「ダメ。ゼッタイ。」が連呼される会場で私は頭を抱えるような気持ちでいた。
「ダメ。ゼッタイ。」の無意味さ。いいかげんにハームリダクションに舵を切れ(小林美穂子)
社会の隅々にまで行き渡った「ダメ。ゼッタイ。」は、違法と知り、健康を害すと分かっていても、使わずにはいられないほどに苦しい日々を生きている人たちから「助けて」を奪い、事態を悪化させ、それでも相談できないようにさせなくしまっていることを知っているからだ。
恐怖とスティグマを植え付ける方法に効果は生まれない。「ダメ。ゼッタイ。」では薬物依存を無くすことはできないどころか、利用者を追い詰める。誰にも相談できなくさせ、社会の居場所を奪い、孤立させ、回復の道を奪ってしまう。禁止薬物利用者は隠れて利用するようになるから、その身をより大きな危険に晒すようになる。
彼らに必要なのは、安心して相談できる機関であり、厳しい罰則や社会的排除ではない。”