場面緘黙・・理解の基礎

2015年かんもくネットの代表角田圭子さんから庄内においでいただいてから8年が経ちました。

「緘黙」という名称で表す状態らしいということは知られるようになっていると思いますが、その対応ということから言えば、「困れば(追い込めば)しゃべる」という誤った考えに基づく指導や介入がまだまだ後を絶たないように感じています。(その子が話すまで皆待っていましょう など)「○○したらしゃべるんじゃないか」というような思い付きの介入は虐待的といっても過言ではありません

適切に理解をし、根拠のある対応・支援を行っていきましょう。

養護教諭の先生方の自発的な学習会を前に事前の資料をあげておきます。
2020年の酒田市福祉課主催の研修会でお話したものです 

K-net(かんもくネット)および 場面緘黙症Journal から多くを引用していますが、それぞれ明示していますのでぜひそれぞれのホームページもお読みください。

状態、その背景、契機、経過 は本当に多様です。


家ではにぎやかでおしゃべりな子。家でも寡黙な子。
学習では高得点をとっている子。学習に難しさのある子。
言葉の不明瞭さがある子。決まった原稿はよどみなく明瞭に読む子。
体育は得意な子。周囲にひとがいると身動きができなくなってしまう子。
初めてのことや大きな音など怖いことが多い子。多動でどこへでも行ってしまう子。

どうしてそんなに多様性があるのでしょうか?

社会不安=内気=気が弱い というイメージに偏りすぎると
その子独自の「状態」や「感じ方のありよう」が見えないこともしばしばです。
心の中に怒りや不満が渦巻いているときもありますし、「それは恥ずかしくないの??」という
ちぐはぐな行動がみられるときもあります。それでも話せるようになり動けるようになって初めて現れた「本来の心と動き」に接しながら、「一緒に自分のことを話していく」ことが可能になります。
そのことは何にも替えがたいことではないかと思います。

ところで不安や恐怖心がわたしたちの中に存在しなかったらどうなるでしょうか?

不安が「ある」ことが問題なのではなく、場に不必要なほど過剰で、自らの意思でどうにもコントロールできない激しさがそのひとの人生を損ねているとき 初めて問題になるものです。
誰もが大胆で、みじんも不安を感じないとしたら、人類はとうの昔に滅んでいるでしょう。

ようやく 支援や医療の対象としてひろく認知され始めた場面緘黙ですが
その多様性ゆえに実際には有意義な支援には出会えていないことが少なくないようです。

医療では場面緘黙(社会不安)をどのように見て、治療していくのがコンセンサスか。
次回は大石 祥先生から この研修会でお話しいただいたものをご紹介します。