聞き取りと見立て;問うべきことを問える面接とは

井上勝夫先生 「テキストブック 児童精神科臨床」
 p14~「問うべきことを問える診察・面接」より

先のコラムでご紹介したご著書より、抜粋にて引用してご紹介します。

スクールカウンセリングにおいては、「傾聴」に加え、クライエントやその関係者に「何を問うか」が求められる。

これはスクールカウンセリングに限らず、思春期・青年期 またそこにとどまらず。「こころ」と「行動」と「育ち」などについて相談という業務にあたるすべての人に重要なことといえるでしょう。求められる広さ、深さに程度の差はあるかもしれませんが、それはそれで「知らないことがある」ことを自覚しておくことが欠かせないといえるでしょう。「自分にはわからないことがまだまだある」ということを忘れてしまうと、決まりきった数少ないラベルに整理してしまい、役立たないどころか、害を及ぼしていることも少なくないことを自戒しておきたいと思います。

精神現在症mental statusとは何か。それは、精神症状を、意識、知的機能、知覚、気分などいくつかの項目に分けて、異常の有無や内容を評価することをいう。

ここでの 意識とは「ある」「ない」ではない、なにかを「意識する・しない」という意味の意識でもない。自意識とか潜在意識とか言うことでもない。

ここでの「気分」は気分がいい とか、気分屋だとか そういうことでもない。

ここでいう「意識」や「気分」が日常語とは異なる意味合いであることをまずは知る必要があるでしょう。実はそのことが共有されていないがために、WISCそのほかの検査の実施法と解釈の<信頼性と妥当性>の問題が生じているともいえるでしょう。(本書p20~21も参照してください)

特に思春期・青年期の患児の精神症状の評価と診断に精神現在症の評価は非常に重要になる。なぜなら、いわゆる思春期心性(特に思春期・青年期の発達段階ならではの心の状態)そのものが複雑であるし、しかも、大人にみられる様々な精神疾患が発症する可能性のある時期でもあるためだからである。

スクールカウンセリングにおいても、精神現在症の基礎知識は欠かせない

たとえば貧困、学習の支援、家族の問題 など 能動的に動くべき時もあるでしょう。医療機関にいて「それじゃ相談員さんに話してみようか」ということがあるとしても、どのような対応策があるかはおおむね知っていて、概要を提案できるくらいの知識はもっている。校内にSSWがいらしたとしても、何をしていただけるかの概要をつたえられないままでは、ただの丸投げ、見捨ててしまったような体験になりかねないのではないでしょうか。

場合によっては、心の状態よりも現実的な課題を優先し、具体的な助言を与えたほうが、解決が早いこともありうる。この場合、実態は心理面接というよりケースワークに近い

スクールカウンセラーに求められる課題は非常に幅広い。事例の外的な現実生活と内的な心のありようの把握、そして、アプローチの具体的なポイントの焦点付けが求められるだろう。さらに、担任教師や保護者との面談を通じた、間接的な情報による事例のアセスメントと対応が求められるなど、複数の関係者が登場してくることも少なくない。

さらに、クライエントの医療の必要性に関する意見も求められる。この場合、行っていることの実際はほぼクリニックのインテーク面接と重なるといえるだろう。

傾聴を通じた受容と共感のみ で終わっていることは無いか?という問いですね。


つづいて「傾聴の面接と、問うこともする面接との違い」として具体的なやりとりをあげてくださっています。

このように、スクールカウンセリングの実務は、傾聴を通じた受容と共感のみで通用する内容ではない。

先日「情報提供書の書き方」の研修をしました。

「書き方」とは形式のことではなく 内容のことです。

そこでは「見立て」がなければ書けないことをお伝えしました。

今回のコラムでは

1 その「見立て」のためには「問うべきことを問う」ことがなされる必要があること、

2 その前提として「問うべきこと」がわかるために必要なことは何か をお伝えしました。

何事も一朝一夕ではできませんので、どんどん見てもらって聞いてもらっていくことが大事です。「情報提供書」もスーパーバイズを受ければよいと思います。対象の方と所属先から了解を得ていただければ、グループでのスーパービジョンでもよいでしょう。医療あての情報提供書であれば、助言者は精神科の医師、もしくは医療の足場のある心理職に見ていただくのが良いでしょう。

<問われるべきことが問われていない>ままの事例で「対応」を検討し発言を求められることが少なくないですが、「もっとこういうことがわからなければ何と言えない」と、明快な回答を行わないという「勇気」も大切なものと思います。

「これは〇〇です!」「△△が原因でしょう」「××しなさい」といった「ご宣託」を提供することを求められ、またそういう言動をおこなう方のほうが実力者のように扱われていることも、残念ながら身近な現実にもよく見られますね。そのような現実に対して、忸怩たる思いの方も少なくないでしょう。

そのような状況に対して、身内で不平不満や愚痴を言って終わるのではなく、それがなぜ誤りなのかを説明できる力をもちましょう。応援しています。